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泉州むかし話

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大川物語

 日暮れと共にいよいよ浜風が強くなってきた。ごうごうと不気味にうなっている。普段は比較的穏やかな内海であるが、今日ばかりは北西の季節風が吹き荒れて、黒々した怒濤が渦巻いていた。
「こら、どえらい天気になってきおったわい。村中の衆を集めて船が流されんよう手配せずばなろまいて」
 紀州大川の村長(むらおさ)である甚兵衛は、村中の人を従えて浜へ向かった。村中とは言っても、せいぜい十数件であるが……。
 時は承元元年(1207)暮れ頃のことであった。
 大波の打ち寄せている浜辺に異様な物を目にした。
「ヤヤッ!ありゃ何や、人間みたいやで」
と一同は駆けつけて行った。この辺りではとんと見掛けたことのない、相当歳取った僧であった。
「あれ!お坊さん、どないしたんよ。しっかりしいやよし」
と声を掛けたが、既に死んでいるのか、返事はもちろん、身動きひとつしない。甚兵衛は僧を抱き起こし、鼻に手を当てるとわずかに息がある。
「やれやれ、まだ生きてなさるようや。とにかく家にお連れせな。皆の衆、後の事は頼みますでな」
と言い残し、甚兵衛は僧をおぶさって家へ帰ってきた。
 早速、熱い風呂を沸かして、冷え切った僧の体を温めるやら、暖かい布団へ休ませるやら、家族一同いや村中の人々が大わらわで介抱した。
 医者等いない田舎のことであり、回復は甚だ危ぶまれたが、素朴で人情味の熱い村人たちの誠意が通じたものか、2、3日もすると、僧は漸く意識を取り戻して、いぶかしそうに辺りを見まわしながら、
「おお、ここは一体どこでしょうかな。私は死にはしなかったのか……」
とかぼそいながら驚きの声をあげた。
「やあ、お坊さん。気が付きなさったかえ。えかった、えかった」
「して、お坊さん。あんた、どこのお方よ」
「あないな時化の海でよ、ようまあ……」
皆、喜んで口々に話し掛けた。
 僧はしばし合唱した。その姿には高僧の威厳が感じられ、村人たちは圧倒される思いで、ただ黙って見つめた。
 やがて、僧は静かに口を開いた。
「私は法然と申す僧でございます。この度、赦されて土佐の国から都へ帰る途中、時化に遭ったのです。それにしても、供の者たちはどうなったことやら。……船が転覆した時のことまでは覚えているのですが……」
 この人こそが、あの有名な法然上人なのか……。村人たちそれぞれの心に、言い知れぬ感動がおこった。
 話は十数年前に遡る。栄華を極めた平家も、壇ノ浦の藻屑と消えうせ、源氏の時代になっていた。しかし、一般大衆の生活の苦しさは相変わらずである。現世の苦しみから逃れたい大衆には、法然の説く浄土宗がよく合ってたらしい。つまり、「この世はいかに苦しくても、ただ、念仏さえ唱えていれば、あの世では極楽往生が叶う」と説くのである。
 そんな訳で、巷には念仏の哀音が満ちみちていた。
 以前から日本に伝わっていた小乗教では、二百五十戒であるとか五百戒とか厳しい戒律を重んじているし、平安時代に伝わった天台宗や真言宗では難解な教学を教本としている。これに対し、法然の説く浄土宗では、やっかいな戒を持つ必要もなく、また何等深い道理を知らなくても、ただ、念仏さえ唱えていれば、西方十万億土への極楽往生がかなうというのである。
 そんな訳で、当時の新興宗教である浄土宗はめきめきと力を増大していった。
 これに脅威を感じた天台宗延暦寺は、元久元年(1204)念仏停止を朝廷へ願い出た。
 翌年大和の興福寺(法相宗)も訴えでた。朝廷ではこれらの訴えを無視できず、法然に『念仏流布停止』を命じた。しかし、民衆の力は圧えがたく、ますます念仏の哀音が蔓延していった。「かかる上は張本人である法然を流罪に出もするしかあるまい」と決められた模様である。
 それは建永二年(1207)2月の事で、法然は既に75才になっていた。
 だが、これはあくまでも建前で、本音は別の所にあったらしい。
 当時は土御門天皇の御代であったが、先帝の後鳥羽上皇には隠然たる権力があった。
 そして、後鳥羽上皇には深く思いを寄せている二人の女官が居た。
 それは、鈴虫、松虫という姉妹である。
 院の囲われ者ともなると、なるほど何不自由ない豪華な暮らしが出来るが、二人とも院の慰み者にされることをひどく嫌っていた。
 そればかりか、二人は凛々しい1人の公卿に思いを寄せていた。
 これまでは至って仲睦まじい姉妹であったが、最近になって互いにそのことに感付き、悩みを深くしていた。
 院の元から逃れたいのもさることながら、むしろ共通の恋人問題の方が頭痛の種であった。
 そんな矢先、後鳥羽院は熊野へ行幸されることになった。これはその留守の間の出来事である。
 共通の悩みを抱いた鈴虫松虫は、よく話し合ったが、恋人の段になると、互いに断じて譲り合わないのである。
「この上は、今評判の法然上人様にわらわ達の胸の内を聞いていただきましょうぞ」
「それがよろしかろう。お上人様ならきっと良い知恵を授けてくださいましょう」
と相談のまとまった姉妹は打ちそろって法然を訪ねた。
 法然は、かわるがわる語る二人の話をうなずきながら聞いていた。……やがて諭すように、
「なるほど、そなた達は深くお悩みのようじゃな。院の色欲といい、そなた達の邪恋といい、結局は浮き世の煩悩と申すものでありましょう。そなたたち直ちに出家致しなされ。唯々御仏に頼り切り、日夜朝暮にお念仏を唱えなされ」
との指導であった。
 そこで二人は迷うことなく直ちに頭を丸め、鈴虫は『住建』松虫は『安楽』という尼僧になった。
 住建と安楽は法然の元で修行に励んでいたのであるが……。やがて、熊野詣でから帰ってきた後鳥羽院は、お気に入りの鈴虫松虫が出迎えの中に居ないことで嫌な予感がした。
 留守居の者に聞きただすと「出家して法然の弟子になった」とのことである。
 後鳥羽院は烈火のごとく怒り、
「ウヌ!けしからん。あの女共奴を今すぐ捕らえて参れ」
と命じた。
 そして、捕らえられてきた住建と安楽をその場で切り捨てた。『かわいさ余って憎さ百倍』という心境であったのか。しかし、よく考えてみると、真に憎むべきは、彼女たちを甘言で釣った法然という坊主である。
 折りから訴状の出ていることでもあり、これ幸いと、法然遠流(土佐に)を決めた次第であった。
 こうして後鳥羽上皇の試乗から無理矢理法然を罪人に仕立て上げたのであったが、さすがに上皇も気がとがめたものか、その年の12月に法然を赦した。
 尚、その時には年号が承元元年となっていた。
 折りから冬の真っ最中で、海の荒れる季節であるが、望郷の念一塩の法然は矢も楯もたまらず土佐の港を船出した。
 だが、海は案じたほどの荒れもなく、紀伊水道をも無事に過ぎ、ちぬの海(大阪湾)へ入ったのである。……さあ、ここまで来たからにはもう大丈夫。なにわの港はすぐそこである。
 法然始め一同はほっと胸をなで下ろしていたのであったが、その時分からにわかに北風が強まり、やがて一寸先も見えぬほどの猛吹雪となった。
 もう二、三刻もすればなにわの港について、一路懐かしい都へのぼれるというのに……。
 船は強風にもてあそばれて南へ押し流されていた。
 それだけならまだしも、大波を被り、アッ!という間に転覆してしまったのである。法然達は凍り付くような暗黒の海へ投げ出された。
「お師匠さまー」
「お師匠さまー」
とあっちこっちから、弟子達の声が聞こえていた。
「おーい、お前たち、がんばるんだぞー」
と法然は返事をしているつもりであったが、波と風にうち消されて声にはならなかった。
 しばらくすると、その声も薄れ、そして消えた。
 法然も返事を返す気力もなくなった。ということは、弟子達は、あらかた溺れ死んだのか?それとも法然自身が気を失ったのか……。
 そしてあれからどれ程時間が経ったのか、法然はただ一人、この大川の浜辺に打ち上げられたのである。弟子たちや船頭衆はいかがしたものであろうか……。
 この大川村は貧しそうな漁師たちの里である。
 さて、村の支配者甚兵衛や村人たちの手厚い介抱で、数日もすると、法然はすっかり元気を取り戻した。
 なるほど年齢こそ取っているが、まだまだ元気そうである。
 そんなある日、法然は、『極楽もかくやあらまし あらたしの はやまいらばや なむあみだぶつ』という和歌を詠んだ。それから毎日のように、村人たちを集め、ありがたい説教を聞かせるのであった。
 やがて年が明け、そろそろ梅のほころぶ季節になった。
 そんなある日、今日も皆にありがたい説教を聞かせたのであるが、その後でこう言った。
「私は既に生命のない所を皆様方に救っていただいた上、今日まで口では言い表せぬばかりのお世話になりました。いついつまでも御当地に逗りたいのはやまやまですが、そろそろ都へ帰らねば……」
 法然の話し終わるのが待ちきれないように、
「お上人様、そりゃ何でかのし」
「わしらにいけん所あったら改めまするで、何なりと言うて頂かして……」
と村人たちは口々に言った。
「いやいや、とんでもない。私は皆様方に感謝こそすれ不満のかけらもございません。この御恩は末代までも忘れは致しませぬ実を申しますと都では多くの弟子たちが私の帰りを待っているのでございます。それに、やり残した大事な仕事もございますし……」
 法然はしばし考えていたが、
「それなら私の身代わりを残して置きましょう。なにとぞ、それでお許し下さい。そこでひとつお願いがありますのじゃ。太い桜の材木を都合して下さいませぬか。そうですな、長さは三尺もあればよろしかろう」
と、言うのであった。
 早速、法然の要求通りの材木が調達された。
 その明くる日から、一心不乱になって、桜の材木に、のみをふるう法然の姿があった。その体からは正に後光が射しているようであった。
挿し絵1
 法然が精魂込めて彫っているのは果たして何であろうか?
 何十日か経って、いつか春はたけなわになっていた。
 法然が精魂込めて彫りあげたのは自分の座像であった。
 それはさながら生きているようであり、本職の彫りもの師でもまねの出来ぬほどの代物であった。正に魂が籠もっている、というものである。

「さあ、皆様方この像を私の身代わりとしてこの地に留め置きます。何分私は本職ではございますので拙い出来でございますが、いついつまでも私同様大切にして下さい。いや生身の私は既に高齢のこと故、先が見えてございます。しかしながら、木に刻んだ像なればいつまでも滅びはいたしますまい」
といってから一同の方へ向き直り、
「お名残は尽きませんが私はこれにて・・・皆様、いついつまでもお元気で・・・」
と法然は鼻を詰まらせつつ、満足に言葉が続かないようであった。
 甚兵衛初め村人たちは、法然上人にいつまでもこの地に逗ってもらいたいのはやまやまなれど、これ以上無理を言って上人様を困らせては申し訳あるまい。と意見がまとまり、法然を気持ちよく送り出した。
 その後、お互いに苦しい財政の内から資金を出し合って一個寺を建て、法然の言い付け通りこの像を納めた。この寺は『報恩講寺』という名である。
 そして、この像を切ったならば血が出ると伝説されるようになった。
 さて、都へ帰った法然は『円光大師』の号がおくられたとのことである。
 そのことはやがてこの地へも伝わってきた。村人たちは共々に祝うとともに、あの、激しい風の吹く寒い夕方、年老いた僧を助けた時の事を懐かしく、ありがたく思い出すのであった。
 それでこの地方では、現在でも晩秋から冬にかけて吹く激しい季節風を、円光風と呼んでいる。
報恩講寺
 尚、報恩講寺は大川寺とも呼ばれている。
 行政区画は和歌山市内であるが、報恩講寺は、大阪府泉南郡岬町小島を僅かに出た所に在るので岬町内という感がする。
 『報恩講寺』への道順。南海多奈川線終点から南方へ約3キロ。大川部落の中。なお現在では和歌山市内ふくまれている。



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