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泉州むかし話

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〒595-0005 大阪府泉大津市森町2-1-4

首斬り地蔵

  ここは和泉の国の南部、日根郡石田の里(現阪南町)である。
 普段はごく静かな農村であるが、このところ、騒然とした空気が村を包んでおり、挨拶の端々にもそれが現れるようになった。
「なんや近頃、世間は騒々しいやおまへんか。なんど、大事でも起こるんとちゃいますやろか」
「さいな。お寺へお参りしても、お住さん(住職)かて、何やイライラしてはるようやさかいな」
 つまり、騒ぎの張本人は、穏やかな上にも穏やかであるべきはずの僧侶たちで、日々、坊主頭を寄せ集めてはヒソヒソと密談しているらしい。
 一体、何事が起きようとしているのだろう。
 時は、天正十三年(千五百八十五)三月であった。
 集まりの中心にいる発起人(ほっきにん)は、波有手(ぼうで)の道弘寺の住職、亮念(りょうねん)和尚(おしょう)であった。
「皆の衆、お集まりくださいましたかな。法務ご多忙の折から、度々、ご無理を申しましてかたじけないことです。なれど、仏法守護のためと心得て頂きとうございます。そもそも仏法の聖域根来寺へは、仏敵豊臣勢を一歩たりとも踏み込ませるべきではございますまい。したがって、我々は叶わぬまでも、不惜身命(ふしゃくしんみょう)の決意を新たに、法を守るべきと心得るが、いかがなものでしょうかな」
 その問いかけに、
「まったく、そのとおりでございまする。今こそ、立つべき時と心得まする」
 と、多くの僧が賛同の声を上げた。
 一方で、 
「我々はあくまでも僧職にある身でございますからな、闘争などいかがなものでしょうか」
 と、二の足を踏む僧もあった。
「しかし、今はそのようなことを言っている場合ではございますまい。断じて、外道(げどう)の輩(やから)に負けてはなりませぬ。今こそ、立つべき時でございます」
「無力な我々なれど、必ずや、御仏のご加護もございましょうぞ」
 と、あちこちから興奮した賛同の叫びが続いた。
 信長の死後、いつの間にか後継者の位置に座った豊臣秀吉は、日本のほぼ全域を手中に収めかけていた。
 そのなかで、なお抵抗勢力といえるものの中で、一番目障りなのが、大坂から近い紀州の根来衆や雑賀(さいか)衆だった。中国や四国地方の征伐もほぼ終わったので、十余万の兵力を紀州に向かわせようとしているのである。
 それだけでは収まらず、海からは毛利の軍団が助勢に来るように、との命令を出していたのである。
 戦いをためらう僧は、そうした情報をいち早く入手していたのである。
「敵は、十余万と聞きます。更に、海からも援軍が来るそうな。負け戦は目に見えています。それなのに戦って、死者を増やして、御仏がお喜びになるでしょうか」
 論理の上では、厭戦(えんせん)派の方に有利であったが、数の上では、戦わずして逃げるのは口惜(くや)しい、口惜しすぎる、という好戦派が優った。
 それで、この一帯の僧たちも戦うことになった。
 さて、具体的な作戦会議であるが、敵の進路予想について、一同の意見はほぼ一致していた。
「豊臣勢は井関峠か風吹き峠を越えて紀州へ攻め込むに違いあるまい。したがって、その街道筋を固めよう。われら僧侶だけでなく、一人でも多くの同士を結集する必要があろう」
 ということになり、各寺の僧たちは己(おの)が部落を説得して回った。
「お住さんの呼びかけやさかい、行かんことには……」
 というので、信心で結ばれた人はもちろんのこと、特に信心に関心のない人も、続々と同士が集まった。
 道弘寺の住職亮念は、
「おお、皆の衆、御苦労さんですな。では、石田の方々は井関峠方面を、自然田の人たちは街道筋を……」
 という具合に、いくつかの集団に分け、要所要所を固めたり、根来や雑賀と緊密に連絡しあったりと、休むまもなく働いていた。
 やがて、遠い潮騒(しおさい)のように、敵軍の近づく気配が遥か向こうでしたかと思うと、あっという間に大きな響きとなり、大軍がすぐ近くに迫ってきた。
 数十、数百の人としか接しない村に、数万の大軍が押し寄せてきたのだった。
 それでも、ある程度は持ちこたえる自信があったのだが、敵はあっさりと防衛線を突破してしまうのだった。
 根来や雑賀の僧なら、鉄砲もあるし、実戦経験も豊富だろうが、なにしろ、この地域の僧は、戦争など経験したことはただの一度もないのである。一般の村人も、そのほとんどが戦争などにまるで無縁の農民たちであった。
 そんなわけで、いずれの陣も瞬くうちに破られて、僧も農夫たちもつぎつぎと首を刎(は)ねられていったのである。
 豊臣勢は手当たり次第に切ってしまうと、峠を越えて、本来の目的の紀州に向かっていった。
 しかし、本隊が去った後も、残党狩りは行われていて、各寺院や家々では、帰らぬ僧、あるいは父や夫、または息子を案じながらも表へ出ることが出来なかった。
「おっとうは死んでへんやろか」
 と、案じる妻子とか、
「倅(せがれ)はまさか殺されてないやろな。あの息子が帰ってこなんだら、わし、生きててもしょうがないんや」
 と、嘆く老人などで、村中に沈痛な空気が漂っていた。
 残党狩りの姿が見えなくなって、村人たちがようやく戦死者たちの始末に取りかかった頃には、人々は見分けもつかないほどに腐敗していた。そして、鼻をつまんでもなお、刺してくるような悪臭……。
 村人たちの心に、死者たちを蔑(さげす)むような気持ちが生まれだした頃、それを救ったのは、傷を負(お)ったものの幸運にも生き残った、ある僧の言葉だった。
「この人たちは一様に、護法のために命を捧げた尊い殉教者(じゅんきょうしゃ)である。したがって、これらの人を地蔵尊としてまとめてお祀(まつ)りするのがよかろう」
 それで、『蓮(はす)池』という大きな池の北の端の堤に、小さな祠(ほこら)を建てて二体の地蔵を祀った。
 一体は、僧侶たちの地蔵であり、もう一体は俗人のためのものである。そして、これは信長街道沿いにある。
 さて、この『信長街道』と名づけられた謂(いわ)れであるが……。
 信長と石山本願寺が激しく戦っていた時、一向宗の信者の多かった雑賀衆は、石山本願寺を支援したのだった。ちなみに、根来衆は真言宗なので、どちらかといえば、信長寄りの姿勢をとっていた。
 したがって、織田信長は、現在の大阪城辺りにあった石山本願寺を攻める一方、紀州方面にも兵を送り込んだ。
 それのみか、天正五年(一五七五)二月頃には、自らこの地方に進撃してきて、波多神社あたりに本陣を構えていたらしい。
 そして、軍用道路を整備したために、その道路が『信長街道』と呼ばれるようになったらしい。もっとも『信長街道』と呼ばれる道はここだけではなく、他県にも存在する。
 信長は、あの本能寺の変で、天下統一を目前にして思いもよらぬ最期を遂げたため、一時、紀州攻めは鳴りを潜めていたかに思えたが、信長の後継者となった豊臣秀吉が根来衆や雑賀衆を徹底的に滅ぼしにかかった。
 信長の味方であった根来衆が、なぜ、秀吉の敵となってしまったのか、不思議に思われるかもしれないが、それは、信長は認めていた河内や和泉の根来衆の領地を、秀吉が取り上げようとしたためである。
 とすれば、もし、信長が生きていれば、根来衆も対立することはなく、ひいては、この石田の里の亮念和尚はじめ多くの村人たちも死なずにすんだかもしれない。
 さて、この護法の僧俗を祀った地蔵を、『首斬り地蔵』という。
 この地蔵のご利益(りやく)は、首から上の病気平癒だとの言い伝えがある。
 仏法のために、首を刎ねられた人々を讃(たた)えるために、誰からともなく言い伝えられたものであろうか。
 いまも、線香の煙が絶えない。


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